読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

山形県の環境と観光産業を守る会

山形県上山市川口地区に建設予定の清掃工場(エネルギー回収施設)に関する詳細、および諸問題について

上山市清掃工場建設予定地周辺風景 (7) 物見山

 

f:id:mamorukai:20151218172728j:plain
物見山は清掃工場建設予定地の南側に隣接

 上山市川口周辺の旧道(新道は国道13号線)は、羽州街道として知られる歴史の道です。また旧道沿いに展開される秋の風物詩「干し柿」は郷愁を誘う景観です。上山市では平成16年に全国街道交流会議の第3回「羽州街道・上山大会」や、平成24年には、第8回羽州街道交流会も開催されています。

 一方で、東の関ヶ原と云われた出羽慶長合戦のせめぎ合いが、 この上山市川口周辺で行われたことは、一般的にあまり知られておりません。前川ダムは昭和57年に竣工した治水ダムです が、それ以前は「忠川池」という名の、大変に美しい池だったそうです。この度の公称エネルギー回収施設建設予定地に接する山は「物見山」と云われ、山麓には「いわや観音」 が祀られています。この物見の山麓一帯が合戦場だったといわれています。

 それを物語る「首塚」が、附近には遺されています。この地は昔から鎮魂の地であったと言えるでしょう。歴史的な遺跡のある場所にごみ焼却場は、あまりにも不釣り合いであると感じざるを得ません。

 

f:id:mamorukai:20151218175842j:plain

首塚の由来

 慶長五年、関ヶ原の天下分け目の合戦の時、山形城主最上義光は、徳川家康に味方し、伊達正宗と共に彼方から上杉景勝を牽制する作戦に出た。上杉の将直江山城寺兼統(米沢城主三十万石)は急ぎ会津より米沢城に帰り、最上攻撃の軍議を整え、慶長五年九月十六日、上山城攻撃の作戦を軍評定により決した。 翌九月十七日早朝、第一隊は本村造酒亟親盛、第二隊は篠井泰信、第三隊は横田旨俊をそれぞれの将として陣を整え、川口から赤坂部落「上の台」附近に陣を構え最上軍に攻撃をかけた。
 即ち、一隊は中山城から川口を経て赤坂に出た。別隊は尖山から小穴に出る。残りの隊は二井宿から柏木、小穴峠を越えて来た。そして石曽根、高松、藤吾、阿弥陀地、細谷より小穴にかけての一帯が戦場と化した。
 一方最上軍は、上山城主里見民部(越後の子)及び山形城より派遣された草刈志摩守を将とする。援軍と一体となって上杉軍と猛烈な白兵戦を展開した。  この戦いで第一隊の本村造酒亟親盛は、「上の台」において討死した。
 そのなきがらを大将塚に葬ったと伝えられる。今は一本の老松と自然石が昔を語るのみである。
 その時、大将と共に勇敢に戦った兵卒多数が大将塚一帯にて戦死したと云う・・・世に言う「物見山の合戦」のいかに激戦であったかを想起させるものがある。
 本村造酒亟親盛は大将塚に、そして運命を共にした諸卒の霊は首塚に葬られたと伝えられている。
 「中山大字棒沢字首塚」がこの場所である。ここに有志相はかり、首塚の碑を建て三七六回忌法要を営み、その霊を供養し後世に伝えるものである。

昭和四十二年九月三日
上山市観光協会 有志一同建之
平成二年九月二十五日
正偲会(再建)

 

f:id:mamorukai:20151219222038j:plain
物見山に連なる尖った山。このあたりでは最も標高が高く、 合戦の際にのろしを上げたと言われています。

© 山形県の環境と観光産業を守る会, All rights reserved